激石と色黒文化

徳田秋声の『美人と美人系』の中の、「よく、薄黒いのが如何だの斯うだのと云ふが」の記述や、泉鏡花の『臼い下地」の中の、「女の顔は浅黒いのが宜いというけれど」という表現が使われているのは、色は七難隠すという白文化の中で、日焼けした色黒の肌が良いという意見も一部にはあったのでしょう。

それについて書かれているのが、夏日激石の四郎』です。

この小説は九O八年(明治四一年)に書かれたもので、小説の冒頭は三四郎が故郷の熊本から上京する汽車の中から始まります。

「三四郎は九州から山陽線に移って、だんだん京大阪へ近づいて来るうちに、女の色が次第に白くなるのでいつのまにか故郷を遠のくような哀れを感じていた。それでこの女が車室に入ってきた時は、なんとなく異性の味方を得た心持がした。この女の色はじっさい九州色であった。」

色黒肌が九州色だと断定するところは、とても面白い表現です。

なるほど、南にある九州は大阪に比べて紫外線も強く、色が黒くなりやすかったのかもしれませんが、おそらくこれは、生活習慣の影響も強く、九州の人は京大阪の人に比べて日光に当たる機会が多かったからではないかと考えられます。

また、熊本のような地方まで白粉文化が浸透していたとは考え難く、『三四郎』に出てくる九州色とは日焼けをして肌の色が黒くなることに無頓着な、色白意識の差にあったのではないかと考えられます

さらに、三四郎が同郷の野々宮という理科大学(現在の東京大学)の先輩をたずねた帰り、大学にある池(現在の三四郎池)のほとりで出会った女性の肌のことを思い返す部分があります。

「西洋料理屋の前で野々宮君に別れて、追分に帰るところを丁寧にもとの四角まで出て、左へ折れた。下駄を買おうと思って、下駄屋をのぞきこんだら白熱ガスの下に、まっ白に塗りたてた娘が、石膏の化け物のようにすわっていたので、急にいやになってやめた。それから家に帰るあいだ、大学の池の縁で会った女の、顔の色ばかり考えていた。」

その色は薄く餅をこがしたような狐色であった。

そうして肌理が非常に細かであった。

三四郎は女の色は、どうしてもあれでなくってはだめだと断定した。」

「石膏の化け物」とは過激な表現ですが、それまでの白塗りで地肌を隠す白粉の化粧文化から、何も塗らない自然な女性の美しさを取り上げた作品です。

ただし、ここで出会った女性、美綱子に四郎は後日会うことになり、その時のことは、「きょうは白いものを薄く塗っている。けれども本来の地を隠すほどに無趣味ではなかった。

こまやかな肉が、強い日光にめげないように見えるよほどよく色づいて、きわめて薄く粉が吹いている。

てらてら照る顔ではないよと書かれており、東京の一般女性の薄化粧が表現されていると同時に、いつも白粉を塗っていたわけではないことがうかがえます。

一九O八年(明治四一年) の九月から一一一月にかけて朝『三四郎」夏目散石の旧新聞に連載されたものですが、剛述した、同年に書かれた徳田秋声の「美人と美人系の中に表現されている「よく、薄黒いのが如何だの斯うだのと云ふが:・」の表現は、大いに激石の『三四郎』を意識した表現のように思われます。

一部に色黒志向があったかもしれませんが、それは少数派であり、大多数は色白志向にあったことは間違いありません